2020年03月17日 12:18
『原理講論』小論
すでに、拙ブログ「統一原理批判:「総序」⑨⑩」にて『原理講論』をめぐるいくつかの問題を扱ったが、ここでは全体の印象を補足的に述べたい。
今はどうか分からないが、以前は『原理講論』を「成約聖書」などと言っていたこともあった。すでに教祖は亡くなったので、続編や修正版は望めるはずもなく、教典といえる唯一のものであることに間違いはない。
『原理講論』の構成を見ると、いくつかの特徴が見えてくる。最初に指摘すべきは、「恩恵論」がないことである。「恩恵論」は、すべてのキリスト教神学においてキリスト論とともに中心的な部分であるが、『原理講論』では扱われていない。
「教会論」も扱われていない。カトリック神学でいう「秘跡論」もない。秘跡とは「目に見えない神の恵みの具体的なしるし」なので、これも神の恩恵を源泉としたものと位置づけられる。教会は、その秘跡を司るものなので、「教会論」も恩恵的な性格を有すると言えるだろう。
つまり、『原理講論』には、キリスト教にとって重要な要素が多々抜け落ちているのであり、まさに神の恵みが語られていない教義体系だと言えるだろう。
「教会論」も扱われていない。カトリック神学でいう「秘跡論」もない。秘跡とは「目に見えない神の恵みの具体的なしるし」なので、これも神の恩恵を源泉としたものと位置づけられる。教会は、その秘跡を司るものなので、「教会論」も恩恵的な性格を有すると言えるだろう。
つまり、『原理講論』には、キリスト教にとって重要な要素が多々抜け落ちているのであり、まさに神の恵みが語られていない教義体系だと言えるだろう。
事実、『原理講論』には「恵み」という表現はなく「恩恵」があるだけだが、それも「復帰摂理の時代的な恩恵」という表現で4か所(128、158、169、284頁)しかない。これは体系的教義書としては非常に少ないといえる。
また、新約時代のイエスに関する出来事を「恩恵」として取り上げる箇所が3か所(275、581、595頁)あるが、これは文脈上、統一教会員には、直接に関連がない箇所である。
また、新約時代のイエスに関する出来事を「恩恵」として取り上げる箇所が3か所(275、581、595頁)あるが、これは文脈上、統一教会員には、直接に関連がない箇所である。
したがって、『原理講論』は、統一教会員が、父なる神やイエス・キリストから神の恵みや恩恵(恩寵)を受けることができると教えておらず、またその方法も書かれていないということになる。
一般のキリスト教なら、人は信じるようになれば、無償で神の恵みを受けることができると教えられ、カトリックならば秘跡によってそれが具体化すると説明されるであろう(恩恵は秘跡に限定されないが)。
しかし、『原理講論』には、そういう教えもその道筋も紹介されていない。「蕩減」とか「復帰」とかいう言い方で、教祖に従属させる方法が教え込まれるだけである。
「堕落論」で原罪を指摘するなら、本当であれば、復活したイエスを信じ、「霊的救い」を得て、さらに次の段階として「肉的救い」を得ようとしてもいいはずなのだが、この方法はなぜか勧められていない。
統一教会員が、原罪を指摘され、その清算のプロセスとして教団で酷使され、「霊的救い」も与えられず、「祝福結婚」まで救いを待たなければならないとすれば、あまりにも福音とは遠い残酷な宗教だと言わざるを得ない。さらに「祝福結婚」で「肉的救い」が与えられなかったとすれば、追従した信者たちはどうなるのだろう。
「恩恵」とは「救済」とほぼ交換可能な概念である。『原理講論』という教典が救いのない思想を説いたものであることが広く認識されるよう祈りたい。